涼宮ハルヒの消失


 今からきめえこと書くから良い子は見んな。SAN値が下がるぞ。






 寒さで頭が冷えてきたら色々理解できた。


 たぶんこの映画は長門の立ち位置というか扱いに関して、二通りの解釈(というよりは楽しみ方に近い)ができるように作ってると思う。


 一方は原作読了組ならきちんとわかる「長門が改変を行ったのは、(細かい説明は省くが)感情=エラーが蓄積したから」というもの。これは本筋で、基本的にはそういう話として物語は収束している。最終的には、長門は自身に芽生えている感情を許容し、未来の自分からのフィードバックをカット。「未来のことを知らないまま、ハルヒたちとの生活を楽しもう」という長門の自我による選択が行なわれて物語が終わっている。らしい。


 もう一方は、「長門が改変を行ったのは、(要約すると)自分がキョンにとってメインヒロインになりたかったから」というもの。蓄積したエラーの中にはキョンに対する恋愛感情も含んでるんだけど、長門自身がそれを恋愛感情だと認識していない(ここが肝かもしれん)。だからハルヒその他の記憶や能力を消す形で改変したし、キョンを文芸部室に来させたりフラグを立てたりしてたんだけど、改変を修正するための救いの手も差し伸べている。



 後者に関しては「長門狂いのにわか信者発言なんじゃないの?」という言を重々承知の上で言うけど、これは前半部分の演出(改変世界での長門)でずっと提示されていることだと思う。製作陣が映画で、しかも演出によってのみ出したにおいのようなものだろう。ファンサービスみたいなものだ。本筋じゃなくて、視聴者がそう思えるような演出しているだけにすぎない。




 となると、映画の正しい見方は前者のほうで間違いない。「あれは長門萌え族による長門萌え映画だったんだよ!」と声高に叫んでいた俺こそがイカレとる。それだけのことだ。くだらん^^


 でもそこがないと原作をアニメ化しただけでつまらんし、あればこその映像化とも言える。だからこれから見る人に対して言うべきことは、そういう部分も頭の片隅に留めつつ観てもいいんじゃないのってこった。160分という悪夢のような上映時間に打ち勝て。



 というわけでQEDである。来週は胸を張って夢幻三剣士を観に行こう。